「障害者差別を問いなおす」荒井祐樹著 を読んで

2020年6月24日 寄本義一

 

ある日の東京新聞に、本年4月10日に発刊された本書が紹介されていた。さっそく購入して読み始めたが、私の今迄のこの問題についての考え方を180度変えられるような衝撃を受け、タイトルの「問いなおす」、いや、「問いなおされて」しまった。

 

この本に於いて、著者は「踏まれても立ち上がる青芝」として名づけられた脳性麻痺者(CP)の[青い芝の会]の活動関連資料に基づいて、障がい者の立場から考察した話が述べられている。

まず、最初に著者は、「障害者差別について考える意味」について説明している。

「誰でもが「障害者差別はいけない事」と認識しているが、実際の個々の場に於いては、人々は不寛容な価値観で判断を下してしまいがちである」としている。

このことから、青い芝の会が、過去から現在に至るまで、それらの価値観に異議を申し立てる活動を、どのように展開してきたかを中心に話を進めている。

 

私は、この書のすべての詳細を、ここで述べるつもりは無く、今後の私たちの活動で、どのように彼らと共に、住みやすい地域社会が実現できるかの心の要と致したいと考えている。障害当事者が言う健全者の立場の考えだけでは、我々の活動は出来ないと強く思わされた。

 

この著者が話の中で、いつも考えていることは[人間とは何か]という事である。この考えの中では、憲法で保障する「基本的人権」もあるが、「人として一生を、その人らしく生きることに、障害当事者は蚊帳の外にされてきたのではないか」という事である。

たとえば、障がい者の母については、彼らは、我々一般とは異なる考えを持ち、時には、母を「障がい者の敵」ともみなしている。大体の障がい者の関連報道では、其の母や親族の苦労話が中心で、話すことに苦難する障害者自身の声があまり聞かれない事も多い。

つい最近、友人からのフェースブックで、障がい者の家にヘルパーとして訪問したときに「障がい者の母が自分の下着を買ってくるのが苦痛である」と言う話を聴いた。母としては、良かれと思っている事の一つかと思うが、当人としては自分で選んで購入したいのである。幼少の時からの話かもしれず、本人から言い出しにくい事もあるかと思うが、私たちの気がつかない小さなことでもストレスを与えているのかもしれない。

私たちの活動も、良かれと思ってやってしまう事も有るかも知れず、利用者との良い関係を持ち、言いたい事を言い合える関係にしないと良い支援は出来ないと思わされた。

 

青い芝の会で最初の頃に取り組んだ事件は(母による脳性麻痺児の殺害)と言う事件で有る。その母の地域住民からは、其の母が障害児を苦労して育ててきて、疲労困憊の末のことから、減刑を求める嘆願書があがって来て、社会も同情的であった。しかし、青い芝の会では、この減刑に、烈な反対運動を起こした。もし、これが許されるのなら、障がい者の親は障害者(児)をいつでも殺害出来る事、世の中に障がい者(児)の生存する権利が保障されない事などがその理由であった。すなわち、殺害された障がい者(児)自身の事については、その地域の人も、社会も何の関心を持っていなかったという事を彼らは、問題にしたかったのである。 この書の後半では、多くの障がい者が殺傷された「相模原事件」の「優生思想」が人々の心の奥に根強く痕跡を残している事などが述べられている。

次に青い芝の会が社会に大きく報道され、知られるようになった活動は、公的交通機関に車椅子の障がい者が自由に乗降でき、移動できる権利闘争である。彼らは、其のアピールの為に横浜駅前のバスをバスジャックまで行った。勿論、彼らは、その理由を社会に説明し、バス会社、横浜市、国交省などと何回も話し合い、やっとの事で介助者なしでも乗車できるように説得し、現在ではバスが車いすでも乗車できる構造に改良されている。

健全者が普通に出来る公共交通機関に自由に乗降できる当たり前の事でも、この様な「闘争」が必要であったことは、深く考えさせられた。当時はヘルパー制度が無く、車椅子利用者が一人でバスに乗ることは、かなり無理な話で合ったと思われる。しかし、かれらは、乗務員は勿論、乗客も手伝う事で、当局を説得した。私も友人に車椅子利用者がいて、若い頃に三浦海岸に京成・京浜急行・バスを乗り継いで城ケ島迄行ったことが有ったが、何の問題もなかったのは、彼らのおかげかもしれない。

現在、車椅子の電車乗降では、駅員が対応しているが、海外の一部では、電車が停車するとドアの下にスロープが自動的に現れるものがある。日本では、ドアとホームの高さが異なる駅もあるが、日本の技術で、シニアも車椅子も安全に乗降できるシステムを作って、もっと自由に誰でもが快適に利用できる時代が来ることを望みたい。

 

色々まだ、話は続くが、最後に著者は、障がい者の性について話を進めている。障がい者は、もちろん、人間だから性欲もあるが、優生思想、施設の管理とかの名目で、否応なしで不妊手術を強いられてきた。人が異性に興味を持ち、恋愛、結婚、子供が生まれる、と言う人として、当たり前の事が障がい者に許されていなかったことが、近年まであったという事実がある。青い芝の会は、優生保護法改訂に、胎児が障害がある場合には、「堕胎できる」と言う条項に猛烈に異議を唱えた。「人の命に係わる事を国が法律で決めて良いのか」と言う事もあるが、「障がい者がこの世に存在してはならない者」と言う事に社会が認めてしまう事になるからである。これも彼らは、厚生省と話し合いを持ち、この考え方は、ヒットラーが考えた優生保護のやり方と同じ考えであることを説明して、この改訂は廃案になった。しかし、何時の世にも「相模原事件」の犯人の様な考えは、社会の底辺に漂っていることに注意しなければならない。

 

青い芝の会の人たちの話では、「経済が好景気に沸いたバブルの時にも、彼らは社会から取り残されていた」と言う証言がある。今後、この新型コロナの影響で、社会福祉が資金が無いという事で、活動全体がしぼんでしまわないようにと、願うばかりで、必要な支援を求めている方々に必要な方法で支援が出来る事をみんなで一緒に考えて行きたいと思う。

 

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